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寺倉清之先生の書評

日本物理学会誌vol.51(1996)7月号,p.525-526

柳瀬章著 空間群のプログラム:TSPACE
(裳華房、1995) 15,450円  [ 専門向 ]
 空間群についての大変ユニークで実用的な本が出版された。空間群のプログラムが フロッピーディスクに収録されており、そのプログラムの使用法が説明されているの である。プログラムは大抵のパソコン、ワークステーション上で走らせることが可能 になっているようである。本書の上記価額にはフロッピーディスクの分も含まれている。
 Gruppen Pest とか言われる程に、理論物理を志す若い研究者が群論にとりつかれ たことがあったというのは、犬井鉄郎先生から学生時代に伺った遥かに遠い昔である 。最近は、点群すらあまり勉強しない(教えられない?)ように見受けられる。ある 意味では、昔程には群論を必要としないということも事実である。群論を使って計算 を簡単に、スマートに行うということをしないでも、計算機で強引に計算してしまう ことが多くの場合に可能になったからである。しかし、きっちりとした仕事をしよう とする際の群論のありがたさは今も変わりはない。状態をその対称性にしたがって分 類すること、行列要素が消えるかどうかを厳密に調べること、などなどを通して、計 算結果をより正確に理解することになり、結果に強い説得力を持たせることにもなる 。勿論、計算量そのものの大幅な削減にもつながる。
 固体物理の研究の主要な対象は完全結晶についてのものである。完全結晶の特徴は 結晶が並進対称性を持っていることである。このことから、固体では点群と並進群が 一体となった空間群が問題となる。ところが空間群はなかなか面倒で、それをよく理 解している人は少ないし、ましてや空間群を使いこなすとなると非常に困難である。 それに、群論も仮に一度理解したとしても、しばらく使わないでいると再び使う際に はかなりのバリアが生じるし、個々の場合に対応するのは結構面倒である。
 柳瀬氏は自らのこうした体験に基づき、約20年ほども前から空間群がいつでも手 軽に、つまらない誤りを犯すことなく、使いこなせるような汎用の計算機プログラム の開発に取り組まれた。これは大変な作業である。空間群を理解するだけでも容易で はなく、それを使いこなすのには一層の修練が必要であり、更にそれを汎用のプログ ラムに書き下ろすというのは評者には気の遠くなる様な作業だと言わざるを得ない。 柳瀬氏のお陰で、空間群が我々にも使いこなせるようになったということは多いに感 謝しなければならない。勿論、これを使いこなすにはある程度の修行が必要である。 この本に述べられているいくつかの注意に十分に気を配り、各サブルーティンの機能 、入力データの入力の仕方、出力データの読み方をマスターする必要があることは言 うまでもない。それに、空間群とは何かということを、少なくとも大枠は理解しなけ れば、一体何をしているのか判らない。しかし、そうした努力さえすれば、空間群を 使いこなせることになる。しかも、(プログラムにバグさえなければ)誤りなく使え るのである。
 本書は全部で300 ページ足らずである。その約 1/4 は群論の入門から、空間群の 要約まで、空間群を使うための基礎的な理論の説明にあてられている。この部分は非 常にコンパクトに書かれているので、群論の全くの初心者が理解するのはむずかしそ うである。多少の勉強をした経験のある者にとっても決して容易であるとは言い難い 。一方、実用を目指した内容であるから、これ迄は何となく漠然としていたことが具 体的なイメージで理解されることにつながることはあるだろう。
 何といってもこの本のユニークさは、空間群を具体的に使う諸々の過程が、具体的 に計算機プログラムという形で展開されていくところにある。どのような内容を含ん でいるかは目次の一部を紹介するのが一番正確であろう。目次の各項目がすべて具体 的なプログラムによって説明されていると考えればよい。5章から空間群の具体的な 説明が始まるが、5章には、空間群の構造、空間群の名前、空間群の生成、結晶構造 の決定の節がある。6章では空間群の既約表現についての説明があり、具体的計算と してはブリルアンゾーンの作り方が示されている。7章は既約表現のプログラムの使 用法が述べられている。その第1節は k 点の自動生成と k 点の名前を求めるサブル ーティンとなっており、実によく手が行き届いている。また、この章では2重表現へ の簡約、ブリルアンゾーンの対称点から対称軸へ移る際などに問題となる既約表現間 の適合関係を明らかにするプログラムの説明などがなされている。8章では平面波の 対称化、原子軌道関数の線形結合型の対称化が具体的な例で説明される。有名なSlat er-Koster の表は容易につくることができるようになっている。9章ではLCAO法によ るバンド計算が対称性を考慮して具体的に行われる例がマグネタイトについて示され る。最後の10章は格子振動への空間群の適用が述べられている。
 空間群のプログラムTSPACEは、これまでにいくつかの計算機センターのライブラリ ーとして登録され、バンド計算を行っている研究者をはじめとして多くの研究者に利 用されてきた。物性研究所にも10年以上前に入れてもらい、我々は多いに利用させ ていただいた。その折に、簡単な使用方法の手引きを作ってもらったことを懐かしく 思い出す。こうした経過があるので、プログラムのバグは殆ど除去され、さらに2重 群の部分などにおいては改良と追加がなされたようである。
 プログラムを含めて本書の全体的印象としては、既に述べたように非常な労作であ るということである。もしも注文をつけるとしたら、プログラムそのものの中にもう 少しコメントがあった方が使いやすいであろう。入力データ、出力リストについても 同じである。本書の出力リストの説明においても、出力リストに行番号を入れておき 、重要な行についてはもう少し説明が加えられているほうが判りやすいと思われる部 分がいくつかある。ただし、もともと本プログラムは柳瀬氏という研究者によって作 成されたものであるから、いわゆるソフト会社が販売するソフトほどにはそうした部 分まで手がまわっていないのは無理からぬことであろう。しかし、空間群のプログラ ムというのは時代と共に変化するものでもなく、かなり恒久性を持つものであろう。 その意味では、このユニークで実用的なプログラムと本を、一層整備していくことは 十分に価値のある作業であると思われる。
                               (寺倉清之)